甲斐犬物語

   

甲斐犬物語

甲斐犬物語(甲斐犬の歴史、気質、特徴の特集記事)

山梨日日新聞「甲斐犬物語」

山梨日日新聞で1982年1月1日から1月17日まで、 竹田十九平記者による甲斐犬に関する記事が連載されました。 記者の観点から取材された内容は、 甲斐犬の基本的なことを理解するのに役立ちます。

以下、山梨日日新聞の記事よりです。

1 甲斐犬物語 甲斐犬物語その12 甲斐犬物語 甲斐犬物語その23 甲斐犬物語 甲斐犬物語その3
4 甲斐犬物語 甲斐犬物語その45 甲斐犬物語 甲斐犬物語その56 甲斐犬物語 甲斐犬物語その6
7 甲斐犬物語 甲斐犬物語その78 甲斐犬物語 甲斐犬物語その89 甲斐犬物語 甲斐犬物語その9
10 甲斐犬物語 甲斐犬物語その1011 甲斐犬物語 甲斐犬物語その1112 甲斐犬物語  甲斐犬物語その12
13 甲斐犬物語 甲斐犬物語その1314 甲斐犬物語 甲斐犬物語その1415 甲斐犬物語 甲斐犬物語その15
16 甲斐犬物語  甲斐犬物語その16

syuugou 甲斐犬物語

甲斐犬の近代史

甲斐犬物語 1

猟師と一心同体 古武士の風格漂う 山梨日日新聞「甲斐犬物語 1」

山梨日日新聞で1982年1月1日から1月17日まで、竹田十九平記者による甲斐犬に関する記事が連載されました。 記者の観点から取材された内容は、甲斐犬の基本的なことを理解するのに役立ちます。

昭和五十六年十一月の展覧会で”ミスター甲斐犬”に選ばれた「小鉄」の勇姿

11 甲斐犬物語 1

一代一主、つまり一人の主人にしか服従しないと言われる甲斐犬が愛犬家のあいだで人気を集めている。

南アルプスの猟犬として長期間、山梨の山岳地帯生まれの純血を貫き、天然記念物に指定されている甲斐犬の歴史は古くて新しい。

秋田犬など大柄な日本犬やセントバーナードなど華やかな洋犬と比べて地味な甲斐犬は熱烈な保護者、愛犬家たちによって引き継がれ、最近では北海道犬とともに地域性を残す数少ない犬種として脚光を浴びている。

イヌ年にちなんで甲斐犬のルーツと現状を探ってみた。

甲斐鰍沢宿(現在の南巨摩郡鰍沢町)は江戸時代から昭和初期ににかけて富士川舟運点として栄えた。 峡南地方最大の商業地域で、近隣の村から物資を求める人々が集まった。

その中でニホンカモシカ、キジ、イノシシなどを追う屈強な漁師たちの姿もあった。

猟師たちは獲物を鰍沢宿の商人に売り、米、みそ、しょうゆ、酒を求めて民家に立寄った。

その足元には必ず精悍な黒っぽい虎毛の犬が控えていた。

ピンとたった耳と尾。厚い胸とくびれた腰。跳躍力を秘めた四肢。

全身を覆う虎模様の黒褐色の胸毛から、主人以外の他人に対しては警戒心を解かない鋭い目が光る。

荒々しく山岳地帯の猟に生きる猟師たちと、一心同体である。

この無気味な容姿だけで村の犬など寄せ付けない雰囲気で、妖気(ようき)が漂い、もし他の犬が近づくものなら一殺のうちに倒す風貌を持っていた事を思い出す」 これは 少年時代を鰍沢で過ごしたという富山医科大事務局長の早川敬明が甲斐犬愛護会の発関誌に投稿した随筆「甲斐犬雑感」の一節である。

早川はさらに「山から出てくる人々は大衆雑誌の主人公のような古武士の風格によく似た無愛想な犬ばかり連れてくるものだと子供心に強く感じた」とも書いている。

昭和初期、南アルプスの猟師たちが鰍沢宿に連れて来た犬は、まだ「猟犬」と呼ばれるに過ぎなかった。 この犬たちが「甲斐犬」と名付けられるのはもう少し後になる。

甲斐犬として、その名を世にとどろかす以前の南アルプス一帯の猟犬の優秀性は古文書にも記されている。

江戸時代、徳川幕府の狩り全般を受け持つ雑司ヶ谷御鷹部屋所属の鷹匠だった中田家に伝わる古文書に当時、御鷹部屋が担当した猟犬買上高、猟犬調査の項目がある。 この中に「甲州巨摩郡、小林藤之助支配所。

江戸より三十八、九里、芦倉村(現・芦安村)同平林村(現・増穂町)。

右村々猟師格別多く宜犬御座趣に候」と記されている。 これは、南アルプス山ろくから鰍沢宿に下りてくる猟師たちに、ぴったりと寄り添う「古武士のような犬」を指している。

格式ある御鷹部屋が太鼓判を押した犬であった。 山梨にこのような素晴らしい犬がいたのに明治、大正の間は文明開化に歩調を合わせた全国的な洋犬ブームで脚光を浴びることはなかった。

この空白の時代が山梨を原産とする甲斐犬の神秘性を一段と増殖させる理由の一つにもなる。

(敬称略)

甲斐犬物語 2

犬好きが甲府で遭遇 新種探しへ”二人三脚” 山梨日日新聞「甲斐犬物語 2」

山梨日日新聞で1982年1月1日から1月17日まで、竹田十九平記者による甲斐犬に関する記事が連載されました。 記者の観点から取材された内容は、甲斐犬の基本的なことを理解するのに役立ちます。

生後3カ月の甲斐犬。いたずら盛だが、既に甲斐犬とくゆうの鋭い動作を見せる

(中巨摩郡玉穂むら成島、早川源一さん飼育)

2 甲斐犬物語 2

昭和4年3月、まだ40歳を過ぎたばかりのの検事が横浜地検から甲府地検に赴任した。 後に甲斐犬愛護会の初代会長となる次席検事の安達太助である。

当時の検事といえば地方都市に過ぎない甲府市民にとっては近寄りがたい存在でもあった。

ところが安達は、人間味のある趣味を持ち、それを通して市民の中に溶け込んでいった。 安達は自他共に認める犬好きだったのである。

昭和9年、会見が天然記念物に指定されたことを記念した山梨日日新聞社の「甲斐犬特集号」に犬好きの理由を「君はなぜ犬が好きか」と聞く人があったなら「僕は好きだから好きなのだ」と答えるより外はない。

(中略)子供の時から無条件で犬が好きであったが、反対に猫は嫌いであった」と書いている。

しかも単純に犬を可愛がるだけではなく、犬に対する知識も本格的だった。

特に我が国の伝統的犬種であるの日本犬を愛していた。

犬好きの安達は横浜時代からわが国の犬事情に不満を抱いていた。

その不満は愛犬家の主流が洋犬、つまり海外から輸入された犬だったからである。

三百年にわたる鎖国が解かれ、明治初期の風潮が日本を覆い、愛犬家の間でさえ洋犬が最高のものとされた。

安達が愛する日本犬は大正の世に入っても不遇で、大都市などでは街角でも日本犬の姿は見ることができなかった。

前任地の横浜もおなじで消えゆく日本犬に心を痛めていた。

そんな時、横浜から甲府へ転任が決まった。

横浜から甲府への移動はポスト的には不満かもしれない。

ところが「山梨に行けばまだ優秀な日本犬に遭遇できるかもしれない」と犬探しに胸をときめかせた。 安達が腕まくりの意気込みで赴任した甲府には心強いアドバイザーがいた。

甲府市立動物園の園長の小林承吉である。

同動物園は大正八年、上野(東京)、京都動物園に次いで全国でも三番目に開園した歴史ある動物園でもある。

小林は東八代郡八代町出身で、東京・麻生獣医大で獣医学を学び、甲府駅前で家畜病院を開業、園長就任前は同動物園の嘱託獣医を担当していた。

安達の甲府不妊以前から、時折、病院に持ち込まれる虎毛の日本犬に興味を抱いていた。

そして南アルプスを中心とする県内の猟師たちが飼っていた優秀な猟犬とオーバーラップさせるまで「神秘の犬」の原産地に着眼していた。

赴任当初の安達は、もちろん小林の存在を知らなかった。

しかし甲府に赴任して間もなく、甲府市内で探し求めていた新種の日本犬と遭遇、小林に協力を求める。 この時からたりの目指す犬が一致、後に甲斐犬と命名される甲斐の日本犬探しがスタートする。

(敬称略)  

甲斐犬物語 3

芦安村で感激の発見 保護の機運盛り上がる 山梨日日新聞「甲斐犬物語 3」

山梨日日新聞で1982年1月1日から1月17日まで、竹田十九平記者による甲斐犬に関する記事が連載されました。 記者の観点から取材された内容は、甲斐犬の基本的なことを理解するのに役立ちます。

大捜査の成果として安達太助が芦安村で入手した稚丹号
この当時はまだ甲斐日本犬と呼ばれていた(写真昭和六年撮影)

3 甲斐犬物語 3

山紫水明の地山梨で純血の日本犬を探したい」と意気込んでやってきた安達太助は早速犬探しを始めた。

安達はとうじの手記に次のように書いている。

「どちらを向いても山また山だ(山岳では)鹿や猪がとれればとて、格別珍しかられもせず。

三面記事にもならない土地だ。

いずれ山奥にはきっと日本権がいるに違いない。

うまくゆけば市内にいるかもしれないくらいにたやすく考えて、商売気を出して、手近なところから捜査を開始した」

 

この結果「どこの路地には、どんな犬がいるかということまで知り尽くしたつもり」(同手記)のところまでいったが、目指す日本犬には出くわさなかった。

しかし、操作にかけてはプロである。

市内捜査の一方で、本職の捜査網も頼った。

担当する事件で地方に出張する度に、地元の警察署長に「ご迷惑でしょうが」と日本犬捜査を頼み込んだ。

 

昭和初期、検事は格式の塊のような地位にあった。

そのお堅い賢治さんから「犬を頼む」と切り出された所長さんたちも驚いたに違いない。

しかし、操作は難航を極め、二年間、日本犬に遭遇できないまま過ぎた。

 

当初の意気込みが、しぼみかけてきた昭和六年春、思わぬ場所で日本犬に遭遇した。

ある朝、甲府市愛岩町の検事局宿舎を出て甲府地検に向かう途中、甲府警察署前を駆け抜ける小型の柴犬のような犬を目撃したのである。

一ヶ月後、今度は県庁跡の敷地を疾走する中型の日本犬にも出くわした。

更に一週間後には自分の住む官舎の玄関先に寝そべっている日本犬にも出くわした。

安達はこの時の喜びを「三度目の正直」「至誠天に通じて」「心中で絶叫」「雀踊りして」など感情むき出しにした形容詞で書き残している。

 

虎毛の剛毛に全身を覆われ、ピンと立った耳と尾を持つ、初めて見る日本犬を目と鼻の先で目撃した。

”犬検事”の捜査はこの時点から、段と力が入った。

 

この間、既に県内の山間部に多く見られる虎毛の犬に着眼した獣医師で甲府市立動物園長の小林承吉と初対面、官舎の前で見た日本犬と同じ種類の分布を知る。

一方、小林も安達の情熱と持ち前の捜査力に共鳴、日本犬の原産種が残る南アルプス山ろくの現地捜査に加わる。

 

昭和六年八月初旬、安達は小笠原警察署に協力を依頼、同所長や芦安村と涼村(現白根町源)の巡査を同行して、犬の生息地である芦安村に踏み入れた。

 

四人連れとはいえ検事、署長らが現場に出かけるとなると大事件である。

しかも犯罪の発生など考えられない平穏な山間の村に出向く大捜査である。

村は全面的に協力、村内の猟犬、番犬のほとんどをかき集めて披露した。

集まった犬はすべて、人慣れしない古武士のような風格を持った虎毛の日本犬であった。

安達の感激は頂点に達した。

 

この当時、この日本権はまだ「山犬」「猟犬」などと呼ばれていた。

しかし研究者でもあった小林は山梨独自の日本犬として「甲斐日本犬」と呼んだ。

安達の捜査と小林の研究で、甲府市を中心とした識者の間には甲斐日本犬の機運が盛り上がった。

(敬称略)

甲斐犬物語 4

保存へ愛護会を発足 県内の名士が固く結束  山梨日日新聞「甲斐犬物語 4」

山梨日日新聞で1982年1月1日から1月17日まで、竹田十九平記者による甲斐犬に関する記事が連載されました。 記者の観点から取材された内容は、甲斐犬の基本的なことを理解するのに役立ちます。

天然記念物指定を前に開いた甲斐日本犬展には甲斐犬発掘の功労者が勢ぞろい
した。右から甲斐日本犬愛護会会長・今井新造、日本権保存会会長・斉藤弘吉、名誉会員・安達大輔の各氏。

4 甲斐犬物語 4

南アルプスを中心とした県内の山岳地帯で、猟師達が使っていた猟犬は土地に根ざした純粋な在来種であったのに、昭和初期まで正式な呼び名がなかった。

「山犬」とか「地犬」とか呼ばれたり、体毛の特徴から「虎毛」とも呼ばれ、ときにはただの「犬」として扱われた。

しかし昭和四年から始まった甲府地検次席検事安達太助の調査や甲府動物園長小林承吉の研究で、甲斐独特の日本犬であることが明らかになり「甲斐日本犬」という統一呼称になった。

さらに、昭和六年、安達は自ら主要生息地の南アルプス山ろくの芦安村に足を踏み入れ、豊富な甲斐日本犬の所在を確認してからは「捜査活動」を「保護活動」へ転換した。

この年の八月、愛安村から甲府へ帰った安達はさっそく、県内の愛犬家や名士に甲斐日本犬の保護組織設立を呼びかける趣意書を送った。

その文面は「我が山梨には他に類を見ない特殊な日本犬が今なお残っているのです。しかも殆ど絶無だともいわれている狼に似た怜悧(れいり)な虎毛の犬です。
(中略)甲斐日本犬の名に栄あらしむ為、切に愛犬家及び愛好者諸氏の御援助をお願いします」という切々たる訴えであった。

昭和6年十一月三日、甲府で甲斐日本犬愛護会(現甲斐犬愛護会)発会式が開かれた。
参加者は発起人である安達、小林ほか、県議の今井新造(後に衆議院議員)、山梨中央銀行頭取の名取などが顔をそろえた。

その顔ぶれは代議士、意思、弁護士、実業家などいづれも県内でトップクラスの大物ばかり。
当時の様子を「発会式に集まった人だけで当時の山梨が動かせるほどの顔ぶれだった」

安達の実力者ぶりとともに「当時の検事という職席の権威のすごさをも物語っている。

小林承吉の長男で、獣医でもあり現甲斐犬愛護会会長の小林君男は「今こそペットブームで高価な犬を飼う人は多いが、あの当時、本格的に犬を飼う人といえば猟師は別にして経済的にも恵まれった人ばかりで。

しかも洋犬主流の中で日本犬を飼おうとする人は金持ちで、変わり者か、学者ぐらいだったようだ」と語っている。
まさに一般市民には手の届かないような所で保存活動がスタートしたのである。
反面、実力者たちによる甲斐日本犬愛護活動はその実力をいかんなく発揮した。
会の規約も「在来の純血を守る」ことを基本にし「金銭による売買をしない」など厳しい条件を付けた。

当時、全国的にも洋犬主流に反発するかのように秋田犬保存会や柴犬保存会、紀州犬保存会などが相次いで設立された。
しかし、甲斐日本犬愛護会が最も地元の名士たちの結束が固く、厳格な運営が継続された。
悪ういえば貴族趣味、閉鎖的とも受け取られたかもしれないが、この閉鎖性が他地域の日本犬が雑種化したり、北陸の越の犬、岐阜の美濃柴犬のように戦争で絶滅することもなく、驚くべき純血性を保ち続けた原動力にもなった。

さらに結成三年後には早くも甲斐日本犬が新たに「甲斐犬」の名前で国の天然記念物に指定される推進力にもなった。

(敬称略)

甲斐犬物語 5

国も在来権保護に力 記念物指定へはずみ 山梨日日新聞「甲斐犬物語 5」

山梨日日新聞で1982年1月1日から1月17日まで、竹田十九平記者による甲斐犬に関する記事が連載されました。 記者の観点から取材された内容は、甲斐犬の基本的なことを理解するのに役立ちます。

5 甲斐犬物語 5

四国・高知の土佐闘犬は四角いリングの中で戦わせる。

勇壮なこの闘犬は全国的にも有名だ。

土佐犬と呼ばれるこの犬は日本犬と錯覚されがちだが、実は洋犬である。

しかも激しく戦うことだけを目的に人工的に作り出された犬である。

 

土佐地方在来の中型犬にブルドッグ、ポインター、グレートデーン、マスチス、ボストンブル、セントバーナードなど、あらゆる輸入犬の血をかけ合せた。

土佐闘犬を観察してみると、食いついたら絶対はなさないというブルドッグ、子牛ほどもある超大型犬のセントバーナードの面影がある。

 

土佐闘犬のように人工的に作り出された犬ばかりでなく、明治依頼、雑種化が進んだ。

名古屋大学農学部助手・太田克明の「犬の家畜化並びに日本在来犬の起源と歴史」という報告書によると「幕末から始まった多数の外国犬輸入は、明治期以降の欧化熱の進展に伴い、まうます拍車がかかり、在来犬の雑種化が急速に進んだ。他方、日本犬の衰微は著しく、大正末期には都市部では純粋な在来犬をみることが全くできなくなるまでに至った」ほどである。

 

明治の文明開化依頼「洋犬にあらずんば優秀犬にあらず」といった社会現象が続いた。
しかし大正末期から昭和初期にかけて、ようやく識者の間から反省の声が起きた。
昭和三年には日本犬保存会が設立され、在来日本犬の保護活動が始動した。

一方、このころから国も絶滅の危惧に立たされた日本犬の保存に力を入れ始め、文部省天然記念物調査員の鈴木外岐雄(後に東京理科大教授)が全国調査を開始した。

この結果、昭和六年、日本犬としては初めて秋田犬が国の天然記念物に指定された。
ちょうど山梨県内では甲府地検次席検事の安達太助が南アルプスで甲斐日本犬の現地調査をし、県内の有志を集めて甲斐日本犬愛護会を発足させた年である。

秋田犬の天然記念物指定の決定は当然のように甲斐日本犬の天然記念物指定への動きにつながってくる。

昭和七年一月、甲斐日本犬の発掘者で愛護会設立の原動力となった安達は甲府で三年間の任期を終えて千葉県八日市場地方裁判所へ転出した。

このため、愛護会は新会長に県議の今井新造(後に衆議院議員)副会長に甲府市議の寺田七男(後に県議、山梨中央銀行監査役、岡島会長などを歴任)を選び、安達は特別会員として一線を退いた。

新体制も協力メンバーである。
特に寺田は常任理事の小林承吉(昭和三八年没)とともに戦後も甲斐犬の保存に力を入れ、昨年九月、八十六歳で他界する直前まで甲斐犬愛護会の会長として功績を残した。

新体制はさっそく甲斐日本犬の国の天然記念物指定へ向けて精力的な活動をスタートする。

その第一は甲斐日本犬の優秀性を中央の識者をはじめ、文部省の担当者に理解してもらうことであった。
しかし、その作業はそれほど困難なものではなかった。
なぜなら、日本犬保存会会長の斉藤弘吉、文部省調査員の鈴木外岐雄ら各界の権威者たちは山梨に素晴らしい在来種の日本犬が純血種のまま残っていることを知っていた。

むしろ専門家側の方が甲斐日本犬に強い関心を示していたからである。

(敬称略)

甲斐犬物語 6

昭和九年に正式指定 実った愛護会員の努力 山梨日日新聞「甲斐犬物語 6」

山梨日日新聞で1982年1月1日から1月17日まで、竹田十九平記者による甲斐犬に関する記事が連載されました。 記者の観点から取材された内容は、甲斐犬の基本的なことを理解するのに役立ちます。

昭和十三年、県と甲斐犬愛護会共済で開いた第六回甲斐犬展
天然記念物指定により、甲斐犬の評価は高まり、
万国旗が飾られた会場には一般市民も押しかけた。

6 甲斐犬物語 6

会長の斉藤弘吉を甲府に招いた。 斉藤は日本犬保存運動の中心的役割を果たし、昭和六年に秋田犬が日本犬として初めて国の天然記念物の指定を受けたときの原動力として活躍した。

昭和七年五月、前年から甲斐日本犬の天然記念物指定への運動に乗り出した愛護会は日本犬保存会会長の斉藤弘吉を甲府に招いた。

斉藤は日本犬保存運動の中心的役割を果たし、昭和六年に秋田犬が国の天然記念物指定受けたときの原動力として活躍した。

斉藤は五月二日、今井新造らの案内で、甲斐日本犬の宝庫芦安村へ足を踏み入れた。
この時の様子は斉藤自らが日本犬保存会会誌第1巻に「甲斐虎毛犬調査報告」として詳しく記述している。
現地調査は二年前に甲府地検次席検事の安達太助が歩いたときとほぼ同じルートであった。

甲府から車で鰍沢町を経由して粟倉村(現南巨摩郡身延町下山)に入り、そこからトロッコを使って新倉村(現南巨摩郡早川町)へ向かった。

調査は芦安村を中心に二日間にわたって行い、各村に全面的な協力で原産地の甲斐日本犬をじっくり観察した。
斉藤は途中、自然の中を駆け回る放し飼いの犬を見て「仙丈、白根、赤石の諸白嶺、灰色の岸壁、白泡を立てて流れる奔流。
実に美しい静寂な影色であった。
黒虎毛はこの間を飛鳥のごとく、かけ走り、飛び下り、この犬はこの山で観察してこその感をつくづく思う」と大いに感激した。

そして「全国中、かくのごとく一定の鹿犬体型を整え、一定毛色を呈し、固定的な繁殖をなしおる所は他に殆どないといって過言ではないだろう」と甲斐日本犬が天然記念物級であることを断言した。

甲斐日本犬愛護会は半年後の十一月六日、東京・銀座の百貨店「松屋」の屋上で開かれた第一回日本犬展覧会に甲斐日本犬を出陳した。
出陳犬数は全部で四十頭だったが、このうち甲斐日本犬は実に二十七頭(秋田犬三頭、その他二十頭)を占め、愛護会の意気込みをのぞかせた。
それというのも同展覧会の審査委員長は文部省の天然記念物調査員でもある理学博士鈴木外岐雄が担当していたからだ。
選び抜かれた甲斐日本犬はここでも絶賛され、特別賞を受けた。

展覧会に出席した甲斐日本犬愛護会常任理事の小林承吉は自著「甲斐日本犬記」に「鈴木氏の激励を受け”当局(文部省)においても保存方法を講ずる”との言質を受け、天然記念物指定の確信を得たり」と喜びを語っている。

その後の手順はトントン拍子に進んだ。
昭和八年、愛護会の事業計画として文部省に正式に天然記念物指定を申請することを決定。
同年四月、第一回甲斐日本犬展を開き、将来の血統維持に備え、推奨犬十二頭を選んで基礎犬と決定した。

六月十日に東京から鈴木が来甲する。
会長の今井新造以下、県幹部や県内の名士が勢ぞろいしての大歓迎に鈴木も満足し「決定は確実」と太鼓判を押した。
天然記念物指定に当たっては「【甲斐日本犬】でなく、【甲斐犬】が良い。それも【甲斐いぬ】ではなく【甲斐けん】と呼んだ方がよい」と妹妹した。
「甲斐いぬ」では「飼い犬」とまぎらわしくなるというのがりゆうである(秋田犬の正式呼称は秋田いぬ)。

翌年昭和九年一月二十日、甲斐犬は正式に国の天然記念物に決定した。
ちなみに時の文部省大臣は鳩山一郎だった。
「山犬」「地犬」などと呼ばれた山梨の在来犬はこの日から「天然記念物 甲斐犬」として、押しも押されぬ存在となった。

(敬称略)

甲斐犬物語 7

飼い主に忠実が特性 在来日本犬の純血保持  山梨日日新聞「甲斐犬物語 7」

山梨日日新聞で1982年1月1日から1月17日まで、竹田十九平記者による甲斐犬に関する記事が連載されました。 記者の観点から取材された内容は、甲斐犬の基本的なことを理解するのに役立ちます。

一点をにらむ甲斐犬。主人には中性だが、見知らぬ人間には異常な警戒心を示す。

7 甲斐犬物語 7

現在甲斐犬愛護会会長を務め、甲府駅前で家畜医院を開業している小林君男(51)は「甲斐犬が天然記念物に指定されたのは当時の愛護会のメンバーの努力を抜きにしては考えられないが、それ以前に甲斐犬そのものが優秀で、価値のある犬だったからだ」と言い、愛犬家の多くは「甲斐犬の特徴は美しくないこと」と言う。

しかし愛犬家たちが語る「美しくない」という表現は決して「醜い」ことではない。逆に「美しくないから、美しい」と、まるで禅問答のような言い方をする。

この言葉には最近のペットブームに対する皮肉が込められている。

犬の品種改良はすさまじい、手のひらに乗る犬、縫いぐるみのような犬、リボンをつけたり、美容院でパーマをかける犬、人間側の好みだけで作り出され、一生、大地を踏まずに部屋の中で暮らし、死んでいく犬も多い。

こうした犬に比べると、甲斐犬は確かに美しくないかもしれない。

小林は「こういう時代にあってこそ、自然のままの純血を引き継いでいる自然の犬の美しさが際立つ。
黒褐色の地味な色がたまらない気持ちにさせてくれるのではないか」と愛犬家たちの心理を分析する。

また愛犬家たちが必ず口にする言葉に「一代一主」がある。
「一生のうち一人の主人にしか仕えない」という意味だ。

株式会社岡島取締役で甲斐犬愛護会理事の山田利器(50)は「甲斐犬の特性、優秀性は数えればきりがないが、飼い主に、つまり主人に忠実なことが最大の特徴。
極端な場合は夫婦、親子で飼っていても、本人(甲斐犬)が主人と決めた一人にだけ従順で、他には敵意をみせる」と語る。
だから甲斐犬ほど、小犬のうちに飼育しなければ思い通りに従わない。
小林によれば、だいたい六ヵ月以内が限度である。

甲斐犬の「一代一主」に関する神話的エピソードは数え切れない。

「旅行中、他人にあずけたら、その間一切食事をとらず餓死した」

「飼い主である夫の所持品を片付けようとした妻に、主人(夫)の所持品が盗まれると感じてかみついた」

「生後三ヵ月でけで育てた子犬が数年後にも昔の主人を覚えていてじゃれついた」

「猟に出て、ひとことも命令しなくても、主人の頭の中で思っていた通りに行動した」

「一代一主」の特性は裏を返せば甲斐犬は飼いにくい犬ということにも通じる。
家族全員、あるいは向こう三軒両隣の人全てに愛される犬ではないようだ。

飼い主以外には不気味なうなり声をあげて威嚇したり、ときには身内の人間にまで飛びかかるというのだから始末が悪い。

小林は「この特性は秋田犬、柴犬など日本犬すべてに共通している。
ただ天然記念物になった各種日本犬のなかでも最も在来の自然、純血が保たれている甲斐犬が最もこの特性が強い」と説明している。

五十数年前、甲斐犬を世に送った甲府地検次席検事の安達太助をはじめ、歴代の愛犬家が「一度飼ったら手放せない犬」というほど、とりこにしてきた甲斐犬の魅力はまさに「一代一主」にあるようだ。

(敬称略)

甲斐犬物語 7

犬種別情報


子犬販売!オススメ子犬!
子犬販売!新着情報
子犬の可愛い動画
地域別子犬情報
お客様の声

子犬購入前に!

adref3


甲斐犬物語PageTOP